豊臣秀吉の墓が京都にあると聞いた。それ自体に興味はさほどないが、
長い石段を登って行くらしい。最初は何処にあるのか分らなかったが、
清水五条の交差点からそう遠くない。散歩にちょうど良い距離のよう。
清水五条から500m東大路通りを下ると、東へ緩やかに登って行く
坂道と出合う。この坂は京女の学生が通学するので、女坂という名が
付いている。地形図からは読めないが左側はフォーシーズンズホテル。
坂道を登りきると平坦地に到着する。その広さの割りに建物は少ない。
ここが豊国廟なのか。敷地の三分の一程は、京女の学生バスの駐車場
となっている。このまま進んで良いかなと、キョロキョロしてしまう。
すると案内所の小屋の窓が開いて、当直者の男性に声をかけて頂いた。
初めてだと察せられたのか、豊国廟の概要を話して頂いた。其の上で
入場したいと申し出ると、時間と体力とお金を使って頂きますとの事。
一瞬ビビり幾らまで出せるかなと、頭の中で考えたりしたが一人百円。
喜んで納めさせてもらう。前を行く青年は陸上選手らしく、志納金箱
に百円玉を投げ入れると、あっという間に石段を駆け上がって行った。
家族が石段を数えていたが分らくなったと言う。ちょうど下って来た
青年が立ち止まって挨拶してくれたので、ついでに聞くと上下併せて
500段位との事だった。ネット上でもいろんな段数が記されている。
中段に平地があり立派な門があるが、只それだけで階段が続いている。
つまり此処は寺でも神社でもなく大きな墓のよう。日光東照宮や大谷
祖廟、高野山の御廟のように日々盛大に弔ってくれる人はいないのだ。
そうか豊臣家は家康に滅ぼされたのだから、江戸時代に存続できたと
は思えない。帰って調べると山麓に壮麗な豊国神社があったが家康に
破壊され明治時代に入るまで荒廃していたという。だから寂しいのか。
という訳で現在目にしている建造物は、全て明治時代に作られた物と
いう事になる。数百年以上経つものが、町中にゴロゴロある京都では、
それほど大事にされていない感がするのも当然か。訪れる人も少ない。
案内所の方も言っておられたが山頂の一角が伐採され、視野は狭いが
清水寺の伽藍群が見える。昨日歩いた東山もその向こうにあるようだ。
近くの木に私製山名板があって、此処が阿弥陀ヶ峰という名だと知る。
観光の積りで来たのに196mのピークに登っていた。いわゆる東山
三十六峰の一つだという。下りも元の道。上の石段は30度あるかな。
出だしだけ少し怖く思う。頭上の枝から雪の塊がドサッと落ちて来る。
閑散とし寂しげな豊国廟ではあったが、日本の歴史を実感するようで、
興味深いものがあった。帰り際に案内所の方に一言御礼申し上げると、
御利益がありますようにと言って頂く。観光地らしくない京都の一面。
女坂を下りきると智積院(ちしゃくいん)の北門が有った。立入禁止
の札がないので入っても良かろう。京都の寺院にも慣れて厚かましく
なってきた。最初の頃は遠慮というか、拝観料が怖くて入れなかった。
京都の大寺院は有料・無料の区域がハッキリ分かれている。日常的に
地域住民の通路としての役割を担っている境内も多い。智積院の境内
は美しくも豪勢に整えられている。現代まで隆盛は続いているようだ。
此の寺は和歌山県の根来にあったが、1585年に秀吉の根来攻めで
全山が炎上。その後1601年に秀吉を祀った豊国神社の跡地を家康
から与えられ再興したという。そんな史実を2時間の散歩で実感した。
なんとも豪勢な散歩だと嘆息する。智積院から東へ下って行くと左に
ハイアットリージェンシーがある。右は国立京都博物館。更に下ると
三十三間堂。此処は境内に入るのにも拝観料がいるようで通り過ぎる。
若狭の三十三間山には山スキーで訪れた。確かに杉の大木が多かった。
この寺院に使われているとか。歩いて行くと格子越しにパラパラ漫画
のように本堂が見えて面白い。この後も養源院や建仁寺に寄って帰る。
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